ジェレム、ジェレム
   
町田純の覚え書きより

〈プロローグ〉

〈この物語の出だしのシーンは喜歌劇「こうもり」序曲とともに始まる。
読者は頭の中で「こうもり」のワルツの部分を鳴り響かせて、どうか読み始めて欲しい。〉

♪喜歌劇こうもり序曲 ヨハン・シュトラウス作曲 

初夏、列車はニセアカシアの樹林を走っている。
これは私の人生最後の旅だ。この病と体力を考えると、そんな予感がする。
私はもう若くはないが、世間一般ではまだまだ仕事ができて先のある年齢だ。
人生とはこんなものなのだろう。
寿命を全うする人は果たして本当に幸せだろうか?
人生はあまりに余計な事がありすぎる。それを全て経る必要はないのだ。
ニセアカシアの上品な香りが車室を満たす。どんな高級な香水もこれにはかなわないだろう。自然は常にかぐわしく気品溢れる。

あれは20年ほど前のこと。
民俗学を専攻する学生だった私は、革の旅行かばん1つと帽子1つとともに、バルカンにフィールドワークに旅立った。
イスタンブールの街で数日を過ごし、トルコからブルガリアそしてザグレブに入った。
あの時もちょうど今頃。木々が緑に染まり、その葉は薫風に心地よくそよぎ、草地には黄色や紫の小さな花が点々と咲きほこっていた。どこまでも草地の続く限り。

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