目覚まし時計
 二匹のネコのお人形コンビがあるアパルトマンに住んでいたときのこと。
 もちろん、今そこに捜しに行ってもいないと思う。しばらく暮らすとその場所に飽きてしまうからだ。
 とにかく、余分な装飾の無い、サッパリとしたアパルトマンだった。
 長い廊下の両側に規則正しく部屋のドアが並んでいた。つまらないキリコの絵のように。青ネコは正面奥に向かって左側、赤ネコは右側の部屋。青ネコの部屋のドアの横、つまり廊下には小さな四つ脚の台が置いてあって、二匹の共有の目覚まし時計がちょこんとのっていた。
 古い発条
(ぜんまい)式目覚ましで、白いエナメルの文字盤や金属カバーのチョコレート色はかなり剥げている。それからへこみも大小いくつか。なぜ青ネコ側に置いてあるのか。それは毎夜青ネコがネジを巻くから。それは翌日きちんと目覚めて、朝食のスープをとり、サイドカー付きのバイクで出かけるため。
 キーコ、キーコ、キーコ。青ネコが蝶型のネジを巻く。動かない。変だナ。ちょっとたたいてみる。動かない。振ってみる。カチャカチャと中で何か部品が転がる音。もう一度たたく。コチ、コチ、コチ…。ホラ、動いた。
 コチ、コチ、コチ、コチ。よし、とドアを開けて廊下の台にのせる。静まり返った廊下に心地よくリズムが刻まれる。コチ、コチ、 コチ、…天井を這って、赤ネコのドアノブの周りを回って、鍵穴から中を覗く。スヤスヤ。
再びコチ、コチ、コチ、……床を伝わり、奥のつきあたりから引き返す。そして、正面玄関の戸をくぐり抜け、夜の闇に音は吸い込まれる。
 深夜のアパルトマン。誰もが深く寝入っている。
 誰もが?
 カケスは集めた木の実を数えながら、107番目で眠りについた。
 クマが寝返りをうつ。どうもさっきから寝床がしっくりいかない。
 ヤマネはますます丸くなって夢を見る。
 クマネズミはうつぶせになってブツブツ寝言を言う。
 スコッチテリアは瞼
(まぶた)の上の毛がうっとうしい。でも眠い。
 ウサギは高いびき。
 それでも午前2時を過ぎれば、やっぱり誰もかれも深く深く寝入っている。
 コチ、コチ、コチ、コチ……そして夜も眠る。
やがて東の空に透明なコバルトブルーが輝きを帯びて、街の薄靄(もや)が退(ひ)いてゆく。朝の4時を回った頃……
 リィリィリリリーン 廊下いっぱいベルが鳴り響く。
 リリリリリィーン 天井の灯りを砕き、ドアをブチ破る。なんて暴力的な音なんだ。
 バタン、バタンとドアが開き、次々と顔を出すアパルトマンの住人たち。みいんな眠い目をこすって、呆然と目覚まし時計を見つめている。
 リリリ、リーン 誰も止めようとしない。自分の目覚ましじゃないし、そもそも目覚ましをかけた本人が起きないうちに止めるわけにはいかない。他のモノの生活に干渉してはいけないから。
リィリリ、リーン。突然赤ネコのドアが開き、赤ネコが出て来た。
 ピタ、ピタ、ピタ。「ウルサイな」ベルのボタンを押す。
 ホラ、止まった。ピタ、ピタ、ピタ。
 バタンとドアを閉めて赤ネコは姿を消した。ほっとしながらみんなも次々とドアを閉めてゆく。
こうして全てのドアが閉じて廊下に静けさが戻ると、アパルトマンの入口のステップに朝の光がこぼれ落ちる。中庭の貧弱な白樺にシジュウカラが留まり、せわしげにさえずり始める。さわやかな初夏の光が開け放たれた窓辺に注ぎ、鉢植えの草花を洗う。風が白いカーテンをあやしながら室内を一周する。青ネコの寝床に光の先っちょが届く。
 マブしい! 目をこする。目を開ける。
なんてさわやかな目覚めなんだ! そう、素晴らしい朝だ。窓の外をしばらく眺めてからドアを開ける。台の上の目覚まし。音がしない。止まっている。ちょっと振ってみる。動かない。こわれているのかナ? 針は4時すぎで止まっている。鳴らなかったんだナ、そして止まってしまった。どこか調子が悪いんだと青ネコは思った。
そのとき赤ネコの部屋からおいしそうなスープの匂い。
 楽しい一日がアッと終り、夜が更けてゆく。窓は開け放したまま。どこからかライラックの香り。青ネコは中庭の暗闇を見つめている。さあ、寝なきゃ。明日もやることが山ほどある。一番に早起きして朝食を作る。それからサイドカーの車体を磨かなきゃいけない。使い古したタイヤも交換。アレもコレも。コレもアレも。そう、エンジンのチェック。でもメカニズムは苦手だ。赤ネコに任せよう。オイルは? 手が汚れるから赤ネコに任せよう。
 それからアーして、その後にコーする…。いつのまに眠くなった青ネコは目覚ましのネジを巻く。キーコ、キーコ、キーコ。午前4時過ぎに合わせて…。
 …動かない。振ってみる。動かない。たたいてみる。動かない。針を動かす。鳴らないし動かない。もう一度たたく。コチ、コチ、コチ……。ホラ動いた。外の台にのせて、ベッドにもぐり込む。すぐに深い眠りに落ちる。
 青ネコは夢を見る。
 うっすらと雪の積もった街道をつっ走るサイドカーとバイク。雪原にとり残されたちっぽけな教会。柵につながれた一頭の馬があっけにとられた顔で見送る。吹きだまりの雪をフッとばす。急カーブだ。
 樺の林を抜けて道は一直線。丘の向こうには新しい雪雲。そうだ! あそこにつっ込め! 赤ネコはエンジンを轟かせる。ブルルルルン。ブルルルル……リリリリリィーーン……
 突然耳をつんざくベルの音が廊下に鳴り渡る。
 次々とドアが開き、冴えない顔が覗く。「またか!」とつぶやくモノは一匹もいない。だって誰もがとっくにあきらめているから。でも眠い。せっかく熟睡していたのに。でも文句を言えない。だってネコのお人形の目覚ましだから。連中に文句を言えるヤツなんてどこにもいやしない。
 リリリ、リィーーーン。まだ止まらない。ヤマネがクシャミをする。クマネズミは立ったまま半分眠っている。でも耳はピクピクと音に反応。全身ウンザリしているのは、やっと眠れそうになったところで起こされたクマ。カケスは木の実をくちばしの中で転がして、ペッと床に捨てた。スコッチテリアは目覚ましを猟銃で撃ち抜く妄想と闘っていた。
 シーンとしたアパルトマンの廊下に鳴り続ける目覚ましのベル。
 バタン、赤ネコが走ってきてベルを止めると、アッという間に自分の部屋に消えた。
 アパルトマンは再びまどろむ。
初夏の夜明け。
 あーあ。青ネコがベッドの中でのびをする。でも手はあまりのびない。だってボクはネコのお人形。あーあ、手足をつっぱる。さあ、起きなきゃ。
 ゆっくり寝床から出て顔を洗う。鏡を見ながら黄色のリボンをきちんと結び直す。ほつれは? ない。よし。ドアを開ける。
 ふと目に入る目覚まし。
 ちょうどそのとき、赤ネコの部屋からスープの匂い。
こうしてこのアパルトマンに棲む連中は、総じて若干の睡眠不足に悩まされ続けた。そして総じて早起きだった。その収支をつける為か早寝のモノが多かったし、昼寝を日課とするモノも少なくなかった。ただ、……

 なんて素晴らしい光なんだ! と青ネコは中庭のベンチで真上の空を見上げた。白樺の若葉は日に日に緑を濃くして、たがいちがいに陽光に散乱させた。
 あのブルーはボクの青といっしょだ、と青ネコはそばに立つ白樺に向かってつぶやいた。微風の中で光がこぼれる。無言の白樺。
 青ネコはアコーディオンを弾き始める。ブーカ、ブーカ、ブーカ。なんて楽しいんだ! おもいっきり歌おう。ブーカ、ブカブカ、ブーカブカ、……
 ワルツをひこう。タンゴをひこう。それからロマンスも、にぎやかな労働歌も、おもいっきりひこう、元気よく、光溢れる中庭で! 青ネコのアコーディオンは中庭にこだました。

 ただ……、ただ、こうして午睡は中断を余儀なくされた。雨の日を除いて。

ムニャ、ムニャ。青ネコは夢を見る。バイクは草原から灌木帯に突入する。バシ、バシ、バシ。小枝がサイドカーの車体をこする。
 アッ! 黄色のリボンに鉤裂
(かぎざ)き。青ネコはベッドの中でうなされる。ハッと目を開く。アレ、ボクは何か夢をていたようだ。でもどんな夢か思い出せない。きっとイヤな夢だ。だってなんだか胸が重苦しい。首のあたりがなぜか気になる。
冬のある晩、その地方には珍しい巨大な低気圧がはるか上空を歩いていた。アパルトマンは雪の中に放置された漬物樽のようだった。
 深夜0時になると風雪は頂点を極めた。すきま風が廊下を走り回った。風がうなり、青ネコはスヤスヤ、ベッドの中。ムニャ…ムニャ…。寝言が風のどよめきにかき消される。ドドーっと荒れ狂う風雪は白樺の枝を吹きとばす。窓ガラスはタタン、タタンと震え、すっかり曇っていた。廊下の小さな台の上では、青ネコの目覚ましがコチ、コチ、コチ…と一人凍えながら刻をきざんでいた。そう、いつものように4時過ぎに鳴らなきゃ。それが唯一の仕事。コチ、コチ、コチ。ドドーっと風の音が外から伝わる。突然バタンと誰かの部屋のドアが開く。鍵が壊れているらしい。風が退
(ひ)く。バタンとドアが閉まる。コチ、コチ、コチ…。
タタン、タタン。青ネコはベッドから出て、廊下のドアを開ける。
 フト目をやると目覚まし時計。コチ、コチ、コチ……。しっかり動いている。ウッ寒い、ブルル。意味もなく廊下を見渡す。寝静まった各部屋。めいめいの生活がそのドアの向こうで寝息をたてているんだ、と青ネコは不思議な感動を覚えた。
 コチ、コチ、コチ、コチ。ゆるやかな生の流れを切断する時計の音。ヒューっと足元を風が走り抜ける。
 また寝よう。ドアを閉めてベッドに潜り込む。でもやっぱりなんだか寝つけない。
 青ネコは初めてこのアパルトマンに棲む他の連中の存在に気がついた。そう言えば鳥がいた。それから馬、いやクマだったか。へんな犬も、ニワトリも? はっきり思い出せない。毎日見かけるのに。まあとにかく、みんな暮らしているんだ。自分の生活を。黄色のリボンをいじる。そのとき、時刻は4時少し前。
廊下のドアがそっと開く。次のドア、そして次のドアも。
 頭がのぞく。頭の毛がのぞく。鼻先がのぞく。前足がのぞく。次から次とそっとドアが開き、顔を半分出して見つめている。何を?
 もちらん青ネコの目覚まし。コチ、コチ、コチ……4時はもうすぐ。そして4時を数分、いや何分かまわると、……。
 そう、青ネコの時限爆弾が炸裂する。誰もがその刻
(とき)を待つ、いや待たされる。毎朝4時少し前に自然と目が覚めてしまうのだ、ある程度同じことが繰り返されれば、その環境に馴化するものだ。
 というわけで、誰もが刻々と迫る4時少し過ぎを待っている。息をひそめ、じっと動かずに、各自の持ち場を離れず、その刻
(とき)を待つ。 
 廊下の空気はキーンと張りつめ、そして青ネコは眠れない。

 そうだ! 今日こそ青ネコは自ら仕掛けた時限爆弾の威力を知るはずだ。
 コチ、コチ、コチ…刻一刻、その時が近づく。風すらぴったと止
(や)み、雪はちらほら思い出したように降るだけ。ゴホン、誰かの咳払い。ブルッ、誰かの身震い。
 もう4時を過ぎた。今鳴るぞ、ほらあと少し。赤ネコだけがスヤスヤ。〈鳴るぞ!〉誰かが心の中で叫んだ。〈鳴る〉他の誰かも心の中でつぶやく。〈もうすぐ〉〈ああ、鳴る〉〈ヤレヤレやっと鳴りそうだ〉

 青ネコは少しウトウトして、すぐまた目を開く。そして深いため息。
 灰色ウサギがベッドに腰かけてその刻を待つ。部屋の鳩時計を見つめながら。〈4時だ!〉誰かがかすかに聞きとれるくらいの小声で囁
(ささや)いた。〈4時だって〉〈4時だぞ〉〈あとほんのちょっとだ〉寒さでガタガタ震えながら誰かがつぶやく。灰色ウサギの鳩時計が4回窓を開き、閉じた。青ネコはベッドから起き上がり、再び深いため息をつく。
 コチ、コチ、コチ、コチ……
 4時5分、…6分…… 凍りついた廊下が息をのみ込み、吐き出せない。
 そして4時10分過ぎ、青ネコの置時計はコトリと止まった。みんなは黙って見つめたまま。赤ネコはスヤスヤ。青ネコはベッドでまたため息をつく。
 4時15分……、30分。すっかり冷え切った体を抱えて皆は力なくドアを閉めていった。無言で。そして目覚ましが鳴ったときと同じように、もう寝ることもできずに、眠い目をこすりながら朝の仕度に取りかかった。そう、寒い寒い冬の一日が始まる。

 青ネコはいつのまにか眠ってしまった。赤ネコはスヤスヤ。
 こうしてこの日青ネコが起きたのは冬の弱い陽が窓ガラスをそっと撫でた頃。鏡の前でリボンを結び直し、ドアを開けた。フト台の上の目覚ましを見る。
 そのとき、赤ネコの部屋からスープの匂い、……がしなかった。なぜって赤ネコはベッドの中でムニャムニャ。
 青ネコは廊下を横切って赤ネコのドアを開ける。
 「スープは?」
続く
NEXT 続き 
 青ネコは落ち着くためにリボンの先っちょをいじくる。カタ、カタ。窓の桟(さん)が音をたてる。雪の結晶が窓ガラスをたたいて滑り落ちる。もう一度寝ようと青ネコは毛布に潜る。どんな夢だったんだろう。首のリボンが少しきつい。毛布から顔を出す。タタン、タタン、窓ガラスを誰かがたたく。青ネコは寝つけない。午前1時、2時……3時。風は少しおさまってきた。それでも雪ははらはら舞い続け、強い風が吹くとひょいと逃げて、ゆるい風のブランコにのっている。顔がつめたい。