初秋、中庭の白樺は早々と色づき、葉の何枚かは散っていた。きのうからの霧雨も昼頃には止(や)み、名残りの靄(もや)も薄れてきた。ひげもじゃのユダヤ人がのっそりと現れて、濡れたベンチを帽子で拭(ぬぐ)うと、手にしたクラリネットを吹き始めた。ユダヤのダンス。ダンス、ダンス、踊りの曲。ユダヤの歌、嘆きのバラード。

 アパルトマンの廊下。あの台にはあの目覚まし時計がのっている。近づいてみると、針は4時とちょっと過ぎで止まっている。埃だらけの発条(ぜんまい)時計。振ってみよう。動かない。ネジを巻く。動かない。たたいてみる。やっぱり動かない。そっと台に戻そう。青ネコのドアを開ける。
 裸のベッドが一台あるだけで、きれいさっぱり。もちろん誰もいない。
 窓ガラスが橙
(だいだい)色の陽を浴びている。そっとドアを閉め、向かいの赤ネコのドアをノックしよう。応えない。ドアを開ける。やっぱり誰もいない、何もない。

 アパルトマンに棲む連中の話だと二匹のネコのお人形は春先に出ていったそうだ。耳をつんざくようなエンジン音を残して。理由? それは誰も知らない。多分大した理由もないのだろう。そのとき、夕餉(ゆうげ)の仕度か、どこかの部屋からスープの匂い。
 青ネコのいた部屋に戻り、窓から外を見る。中庭が見渡せる。ベンチにユダヤ人の姿はなかった。

 もう帰ろう、と思って振り向き、ドアに向かう。開(あ)けたドアの後ろにアコーディオンが隠れていた。
 僕はそれを抱きかかえて、古い古いタンゴを弾き始めた。それから古いワルツも。
実現しなかった物語 目次 
next ある計画 
top ネコのヤンと愉快な仲間たち