5月、僕はボスニアのある村を拠点にフィールドワークをしていた。ある日、突然リリがやって来た。
「やっと見つけたわ! この小屋、ここなのね」

村の公園にちょっとした楽団が来ていて、昔懐かしいジャズやタンゴやワルツを奏でている。村人は楽しそうに踊り、犬や子供も子羊も走り回っていた。
タンゴ「疲れた太陽」が始まったとき、僕らは踊った。そして、続くワルツも。「こうもり」だ。ショスタコーヴィッチのジャズ組曲のワルツが始まると、芝生に横たわって休んでいた僕らは再び踊った。
気持ちよく疲れて小屋に戻ったのは、夕方近く。晴れ渡った空に陽はまだ輝いていた。
僕はリリの服を脱がしながら、耳たぶから首筋、足先の爪まで愛した。
開け放たれたままのドアから差す夕陽に、産毛が光った。
「誰か来たら……」
「誰一人来るもんか」

と、ドアの向こうに2匹のネコたちが姿を現した。
「余ったジャガイモとかありますか? 芽が出ていてもイイんです」
「あ、待っててネ」と、僕は彼らにジャガイモを渡した。
「アリガトウ」 2匹はあっさり帰っていった。
「ジェレム、ジェレム!」と、僕はドアから声を掛けた。
シーツに身をくるんだリリも並んで見守る。
「可愛い2人、いえ2匹ね」
「ウン、たまに来るんだ」
彼らは1度だけ振り向いて手を上げて、去っていった。

簡単な夕食とスプリッツァで乾杯。
そして小屋の前に広がる素敵な夜の草地に出る。
僕はポータブルプレーヤーにこの地で買ったワルツ集をかける。
「青きドナウね。あなたがこんな月並みな曲を聞くなんて」
「これしか売っていなかったんだ。それも中古品だしね。でもいいじゃないか。踊ろう、ワルツを!」
僕はリリの手をとり踊り出す。素肌にオリーブ色のワンピースの彼女の腰を強く引き寄せて。
こうもり序曲、皇帝円舞曲(
カイザーワルツ)、天体の音楽……と続き、最後はラデツキー行進曲。

僕らは踊るのを止めて草地に横になった。
「こういうのって、必ずラデツキーマーチで終わるのね。陳腐な選曲」
「オーストリー・ハンガリー帝国の没落のマーチだから仕方ないのさ。ワルツもこの地方の民族音楽なのだから、その締めくくりに最適というわけだね。産業資本に呑み込まれる貴族・市民階級
(ブルジョアジー)の破滅の歌なんだ」
「破滅の歌にしては景気よすぎない?」
「ハハハ、確かに」
僕らは、こんなくだらないおしゃべりの刻を楽しんだ。
一刻一刻が素晴らしかった。

夕靄に沈む向こうの森では、フクロウが早くも鳴き始めていた。ヘラジカの鳴き声。やがて西の空に三日月が浮かび出る。
靄は僕等も包み込む。リリのうなじも腕も足も爪先も。
「リリ、君はそこにいるね!」
「ええ、ここにいるじゃない。なぜそんなことを聞くの?」

              *スプリッツァ:白ワインに炭酸水を入れた飲み物

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