2. La Machine Tchekhov

チェーホフ・マシーン

芝居というものは、小学校の学芸会であろうが、はたまたアカデミックな大劇団だろうが、とにかく観ていて気恥ずかしいものだ。
おそらく演劇という形式が、時代と余りにかけ離れた別天地に、ひつそりと生き長らえているからだろう。バレエ、舞踏も同じことが言える。

さて、チェーホフの戯曲は、確かにあの時代には不条理なものと思われただろう。彼は芝居の恥ずかしさ、大袈裟なドラマトゥルギーを嫌ったからだ。
演劇によるカタルシスを観客に与えようとせずに、作品の中で、舞台の中で、自己消費させようとした。もっとも、その残滓が、燃えカスが、観客に飛び火したことは間違いない。
だからいまだに、彼の作品は、手を代え品を代えて、上演され続けている。

で、モルドバの劇団イヨネスコ劇場の「チェーホフ・マシーン」という新作 (フランスの関係者との共同制作)は、結核で死の床にあるチェーホフが、彼の芝居の登場人物たちがその後どうなったかを、うなされるように見るといったもの。

ひとことで言うと、脚本が古い。演出も目新しさはない。
音楽がひどく甘ったるいこともあり(音楽担当は、おフランスの人)、余りに感傷的なのだ。
この甘さと感傷は、なんとなく、サイモン・マクバニーの大鰐通り(B.シュルツ)を思い出させてくれる。

たまたまイヴァン・ブーニンのチェーホフの思い出を読んだばかりだったので、なんとなく可笑しくなってしまった。
たとえば、桜の園なんていうものは、ロシアの貴族の屋敷にはありゃしない。あってもせいぜい3,4本。それもぱっとしない花だ。と、没落貴族のブーニンは書く。
それがいきなり、最初のシーンから、桜の木を700本余り切ってしまったと嘆くロパーヒンの登場。
まあそんなことは、どうでもいいことなのだが、チェーホフ劇に対する演劇関係者の思いと言うものは、チェーホフ本人にとっては、とても恥ずかしいものなんじゃないかと思って笑ってしまった。

彼の作品の人物たち、かれらがその後どうなったか、それは意味のあることじゃない。もし意味があるとしたら、革命後生き長らえた連中がいたとしたら、どうなったか、そこを描いて欲しいな。その方がもっともっと皮肉で、複雑になる。

要するに、チェーホフにとって(僕にとっても)恥ずかしくてあまり触れて欲しくないものを、見せてくれたわけだ。ブーニンやトルストイがチェーホフの芝居を理解できなかったのは、チェーホフの戯曲が、前述したように安易なドラマトゥルギーを避けたことだ。それがチェーホフ劇の核心だ。

今回の作者はチェーホフの不条理を芝居にしたと言うが、不条理どころか、えらくマトモなのだ。
余りにセンチメンタルで、いわゆる普通の芝居になってしまっている。つまり、演劇愛好家が、思いあまって、チェーホフ的ではないチェーホフ劇を作ってしまったということかな。でも、こういう思い入れと言うのは誰もが想像することだし、気持ちは分かる。

とはいえ、役者はとても素晴らしく、彼らを俳優にして映画にでもなれば、楽しいものが出来るだろう。
トータルで考えれば水準以上のモノで、しやれている。良かった。

Text by Jun Machida  2003.9


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