1.「シャヒード、100の命」展
ーパレスチナで生きて死ぬことー

このページがこの展覧会から始まるとは……。もう少し軽いものから始めたかった。

占領軍イスラエルに対する、ごくふつーの人々のレジスタンス=インティファーダの最初の犠牲者 たち、つまりイスラエル軍に殺された、パレスチナの老人、女性、子供達も含めて、100人。

かれら、彼女たちの生のしるし、めいめい一点ずつ。
それらが、透明アクリルの立方体の箱に納められ、無言で並んでいる。

ボクシングのグローブ、ベルト、スカーフ、ノート、思い出のアルバム、
好きだったカセットテープ、 スニーカー、左官のこて、歯ブラシ、電器カミソリ、シャツ、子供用自転車、コーラン、
ひとつひとつ、ていねいに、ひもで括って飾られている。

暗いギャラリーの中で目をこらし、浮かび上がるそれらのオブジェを、
我々はモダンアートのオブジェとして見ていくべきなのだ。
断固、遺品ではない !

そして、その視点こそが、モダンアートの欺瞞、我々の、世界の、文化の、芸術の、欺瞞に気付く唯一の道であるということだ。

芸術か、社会的マニフェストか、アジテーションか?
そのような問いかけは全く意味がない。
それでも敢えて、頭の固い旧体制の文化愛好者にわかるように表現するとすれば、こうだ、

---- 芸術が越えられないものは、確かに存在する。----- 

Text by Jun Machida 2003.8



これは、遺品展ではなく、追悼展でもない。優れた美術展である。

遺品は犠牲者の悲劇を想起させ、同情を誘う。

美術家によって選ばれ、麦わらのリボンをかけられ、透明な箱に入れられた遺品は、美しいオブジェに変わる。

普通のシャツ、ありふれたジーンズ、数式が書かれたノートと隅っこのイタズラ書き、壊れたカップ、コンクリートのこびり着いた左官ごて、配管用の糸屑……

何の変哲もない品々が、すばらしく美しいオブジェになる。
そして、オブジェとなった品々は、シャヒードたちの中断された生を祝福し始める。
突然中断されるまでの長く、あるいは、あまりに短かった日常の生を祝福する。

現代美術の可能性をこのような展示に見ることは、悲しむべきなのか?
それでも、なお、喜ぶべきなのか?            

Text by Mariko Machida 2003.8

★  サカキーニ文化センター(パレスチナ)
この展覧会を企画実行した現地組織のサイト。パレスチナのアーチストの作品が少し見られる。
BGMはサミール・ジュブラン

 「シャヒード、100の命」展 website
会期 2003.8.1〜8.10 会場 キッド・アイラック・アート・ホール(明大前駅下車)

芸術的主張目次へ
Top ネコのヤンと愉快な仲間たち